2日に電車でNYから北のグレンスフォールズに向かった。
数日後にグレンスフォールズで共演するロベルト・プラノさん(2001年クリーヴランドコンクール優勝者)が、そこから車で1時間半ほどのキンバルファームでリサイタルをするということで、この機会にグレンスフォールズのホストファミリーの夫婦(ボブさんとバルバラさん)、そして僕らがお世話になっているボストンのマネージャーのジョー・アルトマンさんと、久しぶりの再会を予定していたのだ。
ロベルトはその日にミラノからボストンに着き、ジョーの車で3時間かけて会場入りすることになっていた。「万が一彼の飛行機が遅れた場合は、代りに弾けるように準備していて欲しい」とジョーに言われていたので、僕は一応心構えをしていた。だが、幸いロベルトは無事に着いたので、僕は観客の一人として、彼のリサイタルをゆっくり聴けた。
会場は、リタイアした方のための施設でとても和やかな雰囲気だった。ロベルトは既にそこで弾いてそれを知っていたので、ハードなスケジュールでもこなせると思ったのだろう、トークをしながらスカルラッティ、リスト、シューマンを余裕を持って弾いていた。
主催するお婆さんと演奏会前後に話をして気が合い、ジョーもその場にいたので、僕も近い将来呼んでもらえることになった。

左からジョー、ロベルト
3日からの5日間、僕とロベルトはグレンスフォールズシンフォニーのマネージャー(上記のボブさん)のお宅にお世話になった。僕ら二人ともがカムバック公演だったので、お二人に家族のように迎えられ、楽しいひと時を過ごした。
二人のクリーヴランドコンクール優勝者がプーランクの2台ピアノのための協奏曲を弾くというのは、ボブさんのアイデアだったが、考えてみればとても珍しいケースだ。その地方の新聞にも取り上げられ、インタビューで二人の間にライバル意識があるか聞かれた。しかし実際、僕とロベルトは2004年の春にクリーヴランドで会って以来、何度もメールでやりとりをし、昨年からコモ湖のアカデミーにも一緒に参加し、お互いの演奏を聴いて学び合う仲なので、同じコンクール優勝者同士のライバル意識は全くない。それどころか、しょっちゅうからかい合っているので、バルバラさんに「あなたたち兄弟みたいね」と言われた。
一番可笑しかったのは、車の中で。僕が助手席に座り、ロベルトが後部席に座っていた。彼がいきなり「洸太朗、おまえまた白髪が増えたんじゃない?」と言ってきたので、僕はすかさず「ロベルト、君はまた薄くなったね。」と返した(笑)。
また、ロベルトは僕より演奏活動の年数と経験が豊富なので、話をして沢山学ぶものがあった。彼は結婚して昨年子供もできたので、練習時間を確保したり演奏会で飛び回ることが難しくなってきた、と言っていたが、それでもこの3か月にヨーロッパとアメリカを4往復し、6つの違うコンチェルトと多数のリサイタルをこなしている。この夏はゆっくりイタリアで過ごすそうだ。
さて、短期間の合わせを経ていざ本番。プーランクの『2台ピアノのための協奏曲』は、いろいろな要素が次々と展開する中、ふと古典的なカデンツが現れる、とても楽しい曲だ。プーランクは楽譜内に楽器の配置を細かく指示しているが、ステージの幅と音響の関係で通常の協奏曲同様、ピアノ−指揮者−オーケストラの順番で並んだ。
アンコールを弾く前に、僕が曲をアナウンスしたのだが、ここで恥をかいてしまった。曲のタイトルを正確に覚えておらず、「ミヨーの組曲『スカラムーシュ』から最終曲、・・・」と言って一瞬楽譜を振り返り、見えた文字がb,r,z,i,l,aだったので、とっさに「ブラジリアを弾きます」と言った。次の瞬間椅子に座ってタイトルをよく見ると、『Brazileira(ブラジレイラ)』だった!!恐る恐るロベルトの顔を見ると、「まったくお前は…」と言いたげな呆れた表情を隠すかのような笑顔をしていた。「ただブラジルの首都とブラジル人女性を間違えただけじゃないか」と僕は開き直って(?)、カーニバルのような曲を快活に弾いた。(もちろん後で謝った。)
翌日、僕らはジョイントコンサートをすることになっていた。ロベルトはベートーヴェンの熱情ソナタを、僕はアルベニスのイベリア第4集を弾き、後半4手連弾でシューベルト晩年の名作、幻想曲ヘ短調を弾いた。演奏会で連弾をしたのはかなり久しぶりだったが、とても楽しく弾けた。
この時のアンコールは、ミシガン大学で教えるローガン・スケルトン先生が7つのアメリカンフォークソングを連弾用に編曲した『アメリカンスケッチ』から1曲。僕らが弾いた『Billy Boy』はヴァリエーション形式になっており、4手が激しく交差したり、グリッサンドや腕全体で弾くなど、巧みな技巧が駆使された遊び心満点の曲だ。最後はフェイントを使いコミカルに終わるので、アメリカ人には大いにウケたようだった。